「今でもお母さんと離れるときに胸がギュッとなるの。トラウマだよね」
妹が笑いながらそんな話をしてくれたことがある。
その笑顔の奥で、泣きながら仕事に出る母を追いかけてた小さな妹の姿が思い出される。
ーーー母が、変わり始めた頃の話。
母は運転免許を持っていなかった。生活費を稼ぐために50ccのバイクの免許を取り、配達のバイトを始めた。似合わないヘルメットを被って風を切って走る母の姿は、子どもだった私の目に強く焼き付いている。
もちろん、一つのバイトだけでは、母と子ども三人の暮らしは楽ではなかった。
母は幾つかのバイトを掛け持ちしていた時期もあったけれど、一箇所で稼げる水商売だけはしなかった。きっと夜は私たちと過ごすためだったのだろう。祖父母の家に戻るという選択肢もあったはずなのに、それも選ばなかった。その理由を母に聞いたことはないけれど、もしかしたら心のどこかで「いつか父が帰ってくる日」を待っていたのかもしれない。
いつの間にか母は車の免許も取り、赤い車を手に入れた。
スクーターから車へ相棒を変えた母は、さらに働きまくるようになり、バイトもしながら個人事業主として奮闘していく。
車が届いた日の夜、近所をドライブしたこと、車の車内のにおいも忘れていない。
目が回るような日々の中でも、母はご飯だけは手作りを心がけていたらしい。
夕方帰宅して夕飯を作り、食卓を用意した後に「もう一軒行ってくるね」とまた出かけていく。
母は少し潔癖なところがあって、私に台所の手伝いをさせなかった。
「手伝いたい」と言っても「やらなくていいよ!」の一点張り。
自分の思う通りに片付かないことや、周りが濡れることが嫌だったらしい。食器洗いだけでも任せてくれていたら、少しは体も休めたのに。それは今でも変わらず、母と一緒に台所に立つことはない。
母は食事の仕方にも厳しかった。
ご飯粒を残すと叱られ、テーブルに肘をついて食べているとお箸の持つ方で頭をコツンと叩かれた。
「父親がいないから…」と人に言われることがないように、母はきっと必死に私たちを躾けようとしていたのだろう。
私はそんな母の料理の味が大好きだった。
特にハンバーグと、お弁当に必ず入れてくれた少し甘めの卵焼き。
遠足の日の朝は、この卵焼きのにおいで起きていたっけ。
このブログの名前「ごはんはあった子」は、金銭面に余裕はなかったけれど、祖父母が育てたお米や野菜で作る母の手料理はいつもあったことから名付けた。
私たちには「ごはんはあった」。それは当たり前じゃなかったんだと、改めて感じている。
母の激変のきっかけ・・それは
父からの養育費は最初の数回で、電話で要求してやっとだったとか。そんな電話のやりとりにも疲れ果て、気づいたのだろう。
そこに依存していても無駄なことに。
そして依存をやめた時、母は強くなったんだ。
今、母は当時を思い出しながら
「私、本当によくやってたよね。自分でも感心しちゃう。お母さんね、貯金も上手なの〜」
と笑って話すことが増えた。
お母さん、本当にそうだよ。
祖父母から食料はもらっていたけれど、どちらの実家からもお金の援助は受けていなかったらしい。
離婚もしていないから、母子手当ももらっていなかったよね。あなたは本当によくやってたよ。
私にはとても真似はできなかったよ。
ほんとにありがとう。
余談だけど、外食なんてめったにできなかったあの頃、近所の喫茶店で何を食べるか聞かれたことがあった。私はハンバーグ、兄はナポリタン、そして妹はなぜか……「ご飯とお水」だけ頼んでいた(笑)
ーーーこの、ほんわかした記憶の裏側にも、実は苦しい現実が・・『この女(ひと)、誰?』は、また次回に。
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